「静と義経」をめぐる鎌倉歴史旅〜大姫と義高〜

徒然なるままに

徳島出身のオペラ歌手、楠野麻衣です。
日本オペラ協会の「静と義経」の上演にあたり、縁の地である鎌倉に行って参りました。
まず最初に向かったのは、大船駅から江ノ電バスに乗って常楽寺。
私、大姫(源頼朝と北条政子の娘)と、その許嫁である木曽義高さまが眠る地です。

鎌倉の源頼朝と木曽源氏の木曽義仲は、武力的な衝突を避けるために、義仲の嫡男である義高を大姫の許嫁として鎌倉に迎える事で和解します。
“許嫁”とは名ばかりで、実質的には“人質”でありました。
その頃の大姫はたった6歳。
義高様は元服したばかりの11歳。
どちらもまだまだ子どもです。
ちなみに“嫡男”というのは、一般的に“正室が生んだ最初の男の子”のことを指すそう。
例え側室が先に男の子を生んだとして、その子は“長男”になれても“嫡男”にはなれないのですね。
そして“大姫”という呼び名も、偉い人の長女のことをそう呼ぶそうで、本名は別にあったとか。


お墓がある常楽寺は、北条泰時が妻の母の供養のために立てられたお寺だそうです。


本堂の天井には龍の絵が描かれておりました。


大姫のお墓があるのは、このお寺の裏山。
一度外に出て、門の左側の小道を進むと階段があるので登っていきます。


腹に見えてくるのが 姫のお墓。
大姫のお墓とされていますが、北条泰時の娘の墓であるとも言われており、真実は定かではありません。

許嫁(人質)としてやってきた義高様ですが、幼い二人は互いを慕い、仲がよかったとのこと。

しかしそんな暮らしも束の間。
木曽義仲が殺されると事態は変わります。

父、頼朝が義高を殺そうとしていることを知った大姫は、何とか義高様を逃がそうとしますが、結局見つかって殺されてしまいました。

大姫は大変なショックを受けて床に伏せたといいます。

その後、両親から別の方との縁談を貰う度に断り、生涯義高様への愛を貫き、20歳で生涯を終えました。

オペラの中では母の政子から

「世を儚んで 
食べる物を拒んだ挙げ句に 
死にました」

と、大姫の死が告げられます。

姫のお墓を拝んで振り返ると、さらに登っていく階段があります。

登り切ったところにあるのが愛する義高様のお墓とされるところ。

登り切ったところには愛する木曽義高様のお墓が。

元服したばかりだというのに…。

木曽冠者義高の塚。

二人のお墓参りのあとは、大姫の供養のための岩船地蔵堂に行って来ました。



「晴天の日はこの扉の隙間より大姫様の守り本尊である木造地蔵尊がきれいにご覧になれます。 合掌」


ちょうどこの日は良いお天気だったので、扉の隙間を除くとこんなにきれいに見ることが出来ました。

政治的に利用された幼き二人の儚き命。
言い伝えが本当かどうかが定かではありませんが、二人が同じ土地に眠っているということだけが、少し救われた気分になりました。

天国で二人一緒に幸せにと願った想いが届きますように。

それでは日本オペラ「静と義経」をめぐる鎌倉歴史旅。
次回に続きます。

音譜「静と義経」公演詳細はこちら音譜
【特設サイト】
https://www.jof.or.jp/performance/1903_shizuka/

公演チラシ(654KB)

藤原歌劇団・日本オペラ協会
ソプラノ 楠野麻衣